2010年3月、虹の橋へと旅立ったビーグル犬『ケン』のお話し
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2011年3月5日(土)近況
2011年03月05日 (土) | 編集 |

こんばんは。ちょっと寝不足気味の ねねです。


昨日までのケンの闘病記録、最後までお付き合い下さり有難うございました。

ホント、読みにくかったでしょう?

最初は「まとめて作って、日毎にアップする」なんて言ってたけど、最後まで無理でした。

頭の中ではね、まるで今起きていることのように鮮明に思い出せるのに、
いざパソコンに向かうと思考がストップして全然手が動かないの。

結局、いつも前日の夜中に作ってました。

追い込まれないとダメなのかな、ワタシ(笑)




さて、ここからが本題。



ケンが旅立ってから1年が過ぎました。

実は、ケンが旅立った当初の記憶は、今思い出そうとしても あまり思い出せないんだ。

それなりに普通に生活してきたと思ってたんだけどね。



必死に仕事してたことは覚えてる。沈みそうになる気持ちをそっちに向かせようとしてた。

当時やっていた仕事のことを思い出すと、苦しくなるのはそのせいかな。



昨日の記事にも書いたけれど、「私が泣いてちゃダメだ」ってずっと思っていたのも覚えてる。

でも、不思議だよね。

最初は無理に笑っていたのに、次第に意識しなくても笑えるようになったんだ。

きっと、気持ちにも変化があったんだと思う。



今もね、時々どうしようもなく切なくなって、ケンに逢いたくなって泣いちゃうことがある。

けれど、普段はいつもケンがすぐ隣にいてくれている様な気がするの。

だから、楽しいと感じることも、嬉しいと感じることも、笑うこともできる。

後悔もいっぱいあるけれど、でも、良いことも悪いこともひっくるめて
全てがケンとの思い出なんだよね。



私がここまで思えるようになったのは、やっぱりブログのおかげだと思う。

ケンと思い出を辿ったり、みなさんのブログや温かいコメントから幸せをもらったり。


本当にみなさんには感謝しています。ありがとう!!






今年の3月3日ですが、庭のお墓の方に、おやつと 犬用豆乳鍋(笑)を上げました。


          20110303.jpg



叔父と叔母もお参りに来てくれたんだ。

特に連絡もしてなかったけど、ちゃんと覚えててくれるなんて嬉しかった。



実は、先週の日曜日にケンの1周忌をした ねね家。

祭壇をね、片付けたんです。

私は淋しいんだけど、祖母が「ケンを行くべき所へ行かせてあげないと」って。

「人間は普通そうするんだ」っていう祖母の話(本当かどうかは分からないけど)で、
お位牌(黒ではなくて木製の)はお墓と同じ所へ移設しました。

おやつやフードは毎月3日の命日に、小さなタッパにいれて上げることに。


1周忌は、お花を供えて みんなでお線香をあげるだけの簡単なものだったけれど、
これからも毎年続けて行こうって思ったよ。


ちなみに、私はケンの形見分け(?)に、靴下と病院の手帳をいただきました・・・

・・・というか勝手にもらいました(笑)


       20110303_2.jpg




最後になりましたが、


今も懸命に病気と闘っている子達がいます。

飼い主の方も様々なことに直面して、精神的にも体力的にもとても大変な時だと思います。

その子達が少しでも元気を取り戻せるよう、少しでも長く愛する家族と一緒に過ごせるよう、

心から祈っています。




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2010年3月4日(木)最後の別れ
2011年03月04日 (金) | 編集 |
これは、ケンの最後の闘いの記録です。

先の事はまだ考えたくない、つらい過去を思い出したくないという方はパスして下さいね。

また、コメント欄はしばらく閉じさせて頂きます。 






2010年3月4日(木)




この日は両親も私も会社を休んだ。

食べたくもない朝ご飯を、無理やり口に流し込む。

母は、いつも祖母のココアに入れているはずのシナモンを、私のコーヒーに入れた。

気丈に振舞っているけど、やっぱり普通じゃなかったみたい。




火葬の時間に合わせ、今日も叔父と叔母が来てくれた。

すぐ隣町と言えど、何度も顔を出してくれて本当に有難い。




火葬業者は約束の時間ピッタリに来た。

火葬の流れについて説明を受け、ケンの大きさと体重を計る。

この時のケンの体重は、11.2kg。

元気だった頃は17~18kgもあったのに、いつの間にこんなに減ってしまったんだろう・・・。



準備が整い、とうとうお別れの時が来た。

ケンを火葬車まで運ぶ。 車は家の前につけてある。



棺の中に、大好きだったぬいぐるみや お花、そしていつも着ていた洋服を一緒に
入れてあげようと思ったけど、お骨に色が付いてしまうからと断られた。

残念だけど、しょうがないね・・・。



車の中には簡単な祭壇のようなものもあり、順番にそこで焼香を済ませた。



 ・・・ねぇ、ケン、本当に起きなくていいの?


 ・・・目を覚ますなら今のうちだよ・・・。



全員が焼香を済ませると、業者の人の声で、最後にもう一度全員がお参りをする。



そして、車の扉が閉められた。



車を家のすぐ隣の駐車場に移動する。

少し離れた土地に運んで火葬することも出来ると言われたけど、出来るだけそばにいたい。




移動火葬車は、無煙・無臭だけど、炉の音は大きい。

じっと聞いているには、切なすぎる音。


火葬が終わるまで2~3時間かかると言われ、一旦家の中に戻った。




私達は、家中のあらゆる所にある、ケンのものを集めた。

なぜか・・・ それは処分するため。

形見として残しておけば良かったんだけど、その時の私達はやっぱり精神的に
普通じゃなかったんだね。


あとで思い出すとツライから・・・

もう本当にそれしか頭になくて、家の中から次々にケンのものが消えていった。





火葬が終わり、状態の確認をお願いされた。

「無理にとは言いませんから」って言ってくれたけど、私は最後まで見届けたかった。


父と私で確認をする。


横になったままの姿の骨。

たぶん、そこが病巣だったのだろうか・・・一部が緑色に変色していた。


でも、どんな姿であろうと、愛おしいケンには変わりないよ。


不思議と涙は出なかった。

私の心の許容量を超えてしまったみたい。




業者の人は私達にきちんとした形でケンを返すため、一旦会社へ戻った。



その間に、両親と私はお世話になった病院へ、報告を兼ねてお礼に行った。



実は、昨日何度も先生の所に電話していた。

でも、先生が電話に出てくれたのは朝の1回だけ。

病院も休診日だったけれど、たぶん先生は、最後まで私達家族のそばにケンを置いて
いてあげようとしてたんだ。




先生に、昨日の夕方ケンが息を引き取ったことを報告した。

先生は「気付いてやるのが遅くて、助けてあげることが出来なくて大変申し訳なかった」と
頭を下げて下さった。


そして、ここでもまた新しい事実が発覚した。

ケンのリンパ腫は、脇と喉だけではなくて、肺にも転移していたらしい。

そっか。 そんなに病気は進行してたんだね。


最後は心不全だったけれど、こんなにもたくさんの病気を抱えてケンは頑張ってたんだ。





夕方、業者の人がケンのお骨を持って来た。

お位牌も用意してくれた。


うちは、粉骨にしてもらっていたから骨壷は本当に小さい。


 ・・・ケン、小さくなっちゃったね。

 ・・・でも、やっぱりどんな姿でもケンがいてくれると落ち着くんだ。



準備していた祭壇に骨壷を乗せ、残しておいたおやつや写真を並べる。




向かいのおばあちゃん(祖母の妹)が、「ケンちゃんがね、いつもユリの花の所に行くと
匂いを嗅いでいてね」そう言いながらユリの花の入った花束を持ってきてくれた。

「これはね、夏になるといつもケンちゃんと姉さんがキュウリを半分こして食べてたから」と
キュウリも2本。


祖母も知っている共通の友人からは、お線香をいただいた。



叔父と叔母もまた顔を出してくれた。

昨日から4回目だよ。 忙しい中を、本当にありがとう。





もっと家の中が暗くなるんじゃないかって思ってた。

けれど、そうでもなかった。

たぶんね、家族の誰もが「暗くならないように」って気を使って明るくしてたんだと思う。


実際、私は「私が泣いてばかりいたら、祖母や母がつらくなる。私が明るくしなきゃ。」って
思ってた。

だから泣くのはお風呂の時間だけ。 誰にも見られないからね。





明日からは、ケンのいない毎日が始まる。

でも、触れることはできなくても、存在はそばに感じることは出来るから。


自分で自分に言い聞かせるように、心の中で思いながら眠りに就いた。




         3月4日




これで、ケンの闘病の記録は終わります。

長く、分かりにくい文章で読みにくかったと思いますが、今まで有難うございました。


次回は、近況についてお話できればと思っていますので、もう1回だけお付き合い下さいね。




2010年3月3日虹の橋へ
2011年03月03日 (木) | 編集 |
これは、ケンの最後の闘いの記録です。

先の事はまだ考えたくない、つらい過去を思い出したくないという方はパスして下さいね。

また、コメント欄はしばらく閉じさせて頂きます。






2010年3月3日(水)




2度目の発作の後、ケンは一度だけ立ち上がった。

消耗しきったその身体に、もう力なんてどこにも残っていないはずなのに・・・。

でも、自らの力で立ち上がり、4本足で立った。


自分はちゃんと立てるんだよ、元気だよ・・・って私達に示しているようだった。


犬が4本足で立つなんて当たり前の話だけど、寝返りすら自分では出来なくなっていた
ケンにとって、それはとてもすごいことだったんだ。

ケンのその頑張りは、胸が痛いようで、でもめちゃくちゃ嬉しかった。





一睡もせずに迎えた朝。

気が張っているせいか、不思議と眠くはない。



6時半頃、父は先生に連絡を入れ状況を報告した。

点滴をした方がよいか確認したら、その方が楽になるからしてやってくれと言われた。



私は、本当は会社を休みたかったけれど、前日頼まれた急ぎの仕事がある。

他の人に迷惑をかけるワケにはいかないから、早く出勤して早く帰って来ることに決めた。

父はこのまま休むけれど、母は引き継ぎをしなくてはいけないとのこと。

ケンはだいぶ落ち着いている。


それでも、急いで仕事を片付けて戻ってくるまでの1時間弱は、気が気じゃなかった。

私が帰るとすぐに母も帰ってきた。



この日も全員で祖母の部屋で過ごすことにした。


午前中、ケンの様子を聞いた叔父と叔母が駆けつけてくれた。

さすがに、ケンにはもう起き上がる体力は残っていない。



それより母があることに気が付いた。

「ケン、もう目が見えていないんじゃない?」

いつからかは分からない。

けれど、確かに、誰かが動いても目で追うことがなくなった。


徐々に、ケンの生きていくための機能が失われているようで、切なくなった。




この日の昼間は、点滴が効いているのか、ケンはすごく穏やかな表情をしていた。

微笑んでいるような、まどろんでいるような表情。

これが、ただ普通にお昼寝をしているだけだったら、どんなに良かっただろう・・・。



昼過ぎ、さすがに家族の間にも疲れが見え始め、交代で仮眠をとることにした。




15時。

それまで曇っていた空が、ぱーっと明るくなった。

先に仮眠をとった祖母と母に、「少し横になりな」と言われた。 でも寝たくはないんだ。






16時。

ケンが突然吐くしぐさをした。

自分で必死に身体を起こそうとするが、もうそんな力は残っていない。

私達で身体を支えて起こしてやり、やっと吐いた。

もう何日も食べ物を口にしていないから、吐しゃ物は黄色い胃液だけ。


しばらくして、吐き気が治まったかのように見えた。

ホッとした私達。



でも、すぐに3回目の発作が始まった。

今度の発作は、1回目や2回目の状態とは違っていた。

手足を、まるで駆けっこをしているかの様にバタつかせ、口はほとんど開いていない。

その変わり、すごい勢いで鼻呼吸をしている。


口々にケンの名前を叫ぶ。

これ以上ケンを引き戻すことはしないという約束を思い出す。

「頑張って」と言う代わりに、「もう頑張らないでいいんだよ」「楽になっていいんだよ」と
声をかける。




ケンの鼻先にある私の左手には、ケンの吐く息が当たっている。

必死に呼吸をしている。





そして・・・





ふっと、手に感じていた息づかいが消えた。


「止まった」

思わず私は声をもらした。


母は、「まだ心臓は動いてる」と言って、ケンの胸に耳を当てている。

でも、次第にそれも感じられなくなった。




16時43分。 ケン、永眠。




全員が泣きながらケンの名前を叫び、身体にしがみつく。

表情は、あれだけ苦しんだのに とても穏やかだった。





しばらくして、ケンの身体を綺麗にしてあげる作業に取り掛かった。

最後の発作で、身体からはずっと出ていなかった おしっこやうんちが出ていた。

そういえば、あんなに治療しても治らなかった外耳炎の症状も、
舐めてハゲを作っていた前足も、綺麗に直っている。


自分の身体を 元気な元の姿に戻して、旅立っていったんだね。




その後、ケンを祖母の部屋から仏間へ移動した。神棚の扉を閉める。

仏壇の前にあった 線香などを乗せている台をケンの前に移動し、
ケンが大好きだったおやつを脇に並べた。



それから私は市内にあるペット霊園を探した。


見付けたのは、移動火葬車を扱っている会社。

知らない土地で火葬されるより自宅の方がいいね、という全員の一致でそこに決めた。


自宅に来た業者の方と手続き進める。とても丁寧な対応だった。


ケンの火葬は翌日の朝8時半からに決まった。




業者の人が帰った後、入れ替わりで次々に来客があった。


まずは、一旦帰っていた叔父と叔母が、ケンにとおやつを持って。

そして、向かいのお宅のおばあちゃんが。

夜になって、市外に住んでいる私の弟が、仕事が終わってから2時間かけて来てくれた。


みんな、お線香をあげてケンのそばに行き、話しかけていた。


ケンのことをとても愛してくれた人達。 そして、ケンもみんなのことが大好きだった。




私達も、できる限りケンのそばにいた。

 
 「頑張ったね」


 「今までありがとう」


 「これからもずっと一緒だからね」


何度も何度も話しかけ、身体に触れた。

冷たくなったケンの身体。

でも、ケンの毛の硬さや輪郭は変わらない。




その日は、全員が 仏間の隣にある和室で夜を明かすことにした。

祖母は、ろうそくの火を絶やさぬよう、ずっと起きているとのこと。

私も、時々ウトウトしながらも出来るだけ起きていた。



ほぼ一晩中、ケンを見ていた。

いつものお昼寝の時と同じ表情。

ふいに起き出したりするんじゃないかって思えるぐらい、普段のままのケンがそこにいた。








生と死が本当に隣り合わせにあるんだってことを、この時 私は初めて知りました。

瞬きをする一瞬、呼吸をするその一息で生は死に変わる。

こんなにもすぐ近くにあるなんて・・・。


ケンの最後の呼吸は、今も私の左手に残っています。






2010年3月2日(火)最後の戦い
2011年03月02日 (水) | 編集 |
これは、ケンの最後の闘いの記録です。

先の事はまだ考えたくない、つらい過去を思い出したくないという方はパスして下さいね。

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今回は、翌3日の早朝までの記録です。かなりの長文になっています。




2010年3月2日(火)



この日の日中も、ケンは特に変わった様子もなく過ごしていた。



夜、入浴中に私はふっと思った。

“私だけ、ケンに何もしてあげていない”

父は何度も病院へ通い、母は何ならケンが食べるかと毎日挑戦してる。

祖母は自分の手足も不自由な中、昼夜、ケンを看ている。


私は? 何もしていないじゃないか。



私に出来ることは何だろう・・・ 考えながらお風呂から上がると、いつも祖母の部屋で
横になっていたケンが、ケージ(柵は取ってるので土台だけ)ごと居間にいた。

「どうしたの?」と聞くと、「ケンの手足がすごく冷たいの」と母。

触ると確かに氷のように冷たい。

それから、しばらくの間、私はケンの手足をさすり続けた。

途中、少しお水をあげたり、話しかけたり。 ・・・ねぇ、ねねの話分かる?


こんなに簡単なことなんだよね。

気負って「何かをしてあげよう」ではなくて、ただ、そばにいてあげる。

それでいいんだよね。

明日からは、出来るだけずっとそばにいよう。





22時30分。 寝る前のシッコの時間。

寒い外に出していいのか迷ったけれど、ケンは絶対に家の中でシッコをしない。

厚手の服を着せて父と外へ。


玄関先で、ケンはじっと一点を見つめていた。

私達の目には特に気になるものなんてないんだけれど。


しばらくすると、ケンは立っていられなくなり道路に座り込む。 急いで家の中へ戻った。



ケージを祖母の部屋に戻す間、私はケンを抱いていた。

あんなに重たかったケンが、嘘のように軽い。

胸が痛かった。





就寝のため自分の部屋に戻ると、会社の上司から電話。

翌日の朝一で必要な資料を準備してほしいとのことだった。


電話を切り、横になる。少しの間考え事をしていた。






11時13分。 祖母からの電話。

嫌な予感。

電話に出ると、「ケンの様子がおかしい」と切羽詰まった祖母の声。

急いで祖母の部屋へ行く。



そこで見たのは、今まで見たことのないケンの様子だった。

まるで伸びをしているかのように四肢を突っ張らせ、目は大きく見開いている。

口はこれ以上ないほど大きく開けているが、そこから聞こえるのは
10秒に1回くらいの「ヒュー」という呼吸音だけ。 必死に息をしている音だった。


すぐに父と母を呼ぶ。



次第に、ケンの身体は激しく痙攣を始めた。

みんな口々にケンの名前を呼び、必死に体中をさする。



ケン、頑張れ!頑張れ!


涙が止まらない。



この時何が起きたのか、たぶん誰も理解出来ていなかったと思う。


気が付くと、ケンの呼吸はだいぶ落ち着いていた。

痙攣はまだ小刻みに続いているけど、発作はだいぶ治まった様子。

その後もしばらくケンの身体をさすっていた。



そして・・・


ケンは、私達一人一人を順番にじっと見つめた。

それは、家族の顔を自分の心に残そうとしているようであり、
最後のお別れをしているようでもあった。

そんなことあるわけないって思うかもしれないけど、でも本当の話なんだ。





落ち着いてからも、ケンは寝ようとしなかった。

いつもならすぐに寝るのに、ずっと目を開けたまま。

時々、目がウトウトとするんだけど、でも、ビクッとしてすぐに起きてしまう。


まるで、 “眠ってしまったらもう目覚ることが出来なくなってしまう” とでも思っているかのよう。






その日は、そのまま全員が祖母の部屋で過ごすことにした。

交代で寝ようという話もあったけれど、私は「寝ない」って決めた。

ケンが眠れないのに、私だけ眠るわけにはいかないよ。





3時30分頃。

ケンが身体を起こし、部屋の出入口の方をじっと見ている。

「どうしたの?喉が渇いた?」そう言って母がシリンジを取ろうとした時だった。


突然、ケンは お座りの姿勢のままバタンッと横に倒れ込んだ。



二度目の発作。

口を大きく開けているものの、全く息をしていない。

ケンの必死の形相に、思わず母は自らの口をケンの口元に近づけ、人工呼吸を行った。

私達はケンの名前を叫びながら身体中をさする。



 ・・・なんでケンがこんな目に遭わなくちゃいけないの?


 ・・・ケンが何をしたっていうの?


 ・・・私が変わってあげるのに!


 ・・・神様、どうかケンをこれ以上苦しめないで!




どれだけ経っただろうか。

発作はかなり治まったようだ。



だが、一度目の発作からほんの数時間。

ケンはどれだけ苦しいことだろう・・・。



母が泣き叫ぶように言う。

「もうこれ以上、ケンを苦しめられないよ。ケンが可哀相だよ。お父さん、先生に連絡してよ」

それはつまり、安楽死をお願いするということ。

先日話をした時には絶対に無い選択だと思っていたけれど、
この時は私自身も分からなくなっていた。


ケンは必死に闘っている。生きよう、生きようと頑張っている。

でも、もしかしたら「苦しいよ、もう嫌だよ」って言っているのかもしれない。

ねぇ、ケン。 ケンはどうしてほしい?



結局、父は電話をしなかった。多分、父なりの考えがあってのこと。




その代わり、みんなで話し合って決めたことがある。

今度、もしケンが苦しんだ時は、無理に呼び止めずに送ってやろう・・・と。


本当はそんな選択したくなかった。

少しでも長くケンには生きていて欲しい。

でも、これ以上私達がケンを苦しめるわけにはいかない・・・そう思ったんだ。





結局 この日、ケンは一睡もしなかった。





  退院直後  
        退院直後のケンを祖母が撮影






安楽死という選択は賛否両論あると思います。

私は、未だどちらの選択が良かったのか分かりません。

でも、きっとケンは最後まで生きようと頑張ったんだと思います。

だから最後まで看取るという結論を出したことについて、後悔はありません。





2010年3月1日(月)先生の優しさ
2011年03月01日 (火) | 編集 |
これは、ケンの最後の闘いの記録です。

先の事はまだ考えたくない、つらい過去を思い出したくないという方はパスして下さいね。

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2010年3月1日(月)



ケンの様子は相変わらず。

際立って悪くはならないけれど、良くもならない。




日中、叔父と叔母がケンの様子を見に来てくれた。

ケンは、叔父のことが大好き。

祖母の話によると、横になりながらも尻尾を振って喜んだらしい。

叔父が手ですくった水も飲んだ。



会社の昼休みを利用して一旦家に帰った私に、祖母は嬉しそうに話してくれた。






夜、仕事を終えた両親はケンを連れて病院へ。


スポイトで水を飲ませていることを説明すると、「それでは大変だろう」と言って、
シリンジを2本持たせてくれた。



それから、私が「先生に聞いてほしい」とお願いしていた「強制給仕」について質問した。


ケンは自分から食べ物を口にしなくなっている。

無理やりにでも食べさせた方がいいんじゃないかと思ったんだ。


でも、先生からは「NO」の回答。

食べようとしないのは、吐き気があるから。

そんな時は無理に食べさせても吐くだけとのこと。

ケンが自ら食べてくれるのを待つしかないということか・・・。



そして、父は皮下点滴の方法を先生から教わった。

さすがは父と言うか、私や母じゃ怖くて出来たかどうか・・・。



明日からは、自宅での朝晩2回の点滴が始まる。




帰り際、先生は「家にいた方が絶対にケンにとってもいいはずだから」と口にした。

この日だけでない。その言葉は病院に行くたびに聞いていた。

当時は“住み慣れた家にいた方が、ケンも気持ち的にラクなんだろう”と考えていたけど、
今思うと、この時すでに先生はケンの先が短いことを知っていたのかもしれない。

多分、私達を気遣っての先生の優しさだったんだ。






当時、何もかもが初めての経験で、何の知識もなく、唯一頼れるのは先生だけでした。


ネットでいろいろと調べたりもしました。

でも、あるサイトで「良い」と書いてあることが、違うサイトでは「ダメ」と書いてあったり、
調べれば調べるほど私は混乱していました。


今、いろんな方のブログから勉強し、当時よりは多くの情報を得ていると思います。

ブログに書かれているのは、実際の経験。

下手なサイトより、よほど勉強になります。

もっと早く、ブログを見ていたら・・・もっと早く知っていれば・・・

後悔しても仕方のないことだけど、
でもやっぱり「他にも何かできたはず」という悔しさは消えません。






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